2006年5月 4日 (木)

サンフランシスコ平和条約の趣旨

サンフランシスコ平和条約はどのようにして成立したのでしょうか?

これは決してマッカーサーが適当に独断と偏見で決め付けたものではありません。アメリカが中心になって日本の地理、歴史、習俗、制度など、あらゆる面にわたる調査を行い、何度も草案を書き、検討し、そして何度も書き直して成立したものです。

詳しい経緯は以下のサイトなどを参考にしてもらうとして↓

http://www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/takeshima.htm

http://blog.goo.ne.jp/pandiani/e/cd0d8749a934fc781bc60f0393eb5978

http://toron.pepper.jp/jp/take/sengo/keii.html

竹島に関する大雑把な経緯をまとめると以下の通りです。

①初期の草案においては竹島は韓国側の領土として扱われていた。

②しかし調査の結果、竹島は日本に含まれるべきという考えが強くなった。

③これに対して韓国側も抗議はしたが、あっさり却下された。

そしてこのようにして1949年12月に成立した草案がこれです。↓

日本の領土は、四主要島である本州、九州、四国及び北海道並びに瀬戸内海の島々、対馬、竹島(リアンクル岩)隠岐列島、佐渡、奥尻(中略)からなる。
上に挙げられた全ての諸島は、三海里幅の領海と共に日本に属する。

竹島もしっかり含まれています。

しかしこの書き方だと、日本が柵の中に囲い込まれるような感じで日本の心象を害するだろうとのことで、「日本が放棄する領土のみ」を書くように変更し、1951年に以下の最終草案が成立し↓

日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮に対する全ての権利、権原及び利益を放棄する。

これが正式採用された、ということです。

この流れを素直に見る限り、どんなにひいき目に見ても竹島が韓国のものにはならないですね(却下されてるし)。

しかも、これ書きながら気づいたんですが、韓国の主張する「条文に全部の島を書くわけない」式の議論をした場合、「じゃあ韓国的には何を主だった島以外の島と言い、逆にこの条文から自国の領土をどう定義するの?」という疑問にも答えられないですよね。

2006年4月30日 (日)

日本分割と竹島

今日は戦後の領土確定について考えたいと思います。

戦後、日本はGHQによって多くの領土を削り取られました。といってもピンと来ない人もいるかもしれませんが、戦前は朝鮮半島も台湾も、それから南洋諸島も全部日本でした。

これは蛇足ですが、私は子供のころパラオの国旗が日本の日の丸にそっくりなのを見て「なんでこんな遠く離れた日本と何の縁もゆかりもなさそうな国の国旗が、こんなに似てるんだろう?」と思ったことがありました。しかし実はパラオも戦前は日本だったのであり、「日本と何のゆかりもない」わけではないということを最近知りました。いや、というよりも、パラオの国旗は日本の国旗をまねて作ったものなのでした。パラオの人は日本の統治にとても感謝しており、その感謝と尊敬の念を込めて、パラオは独立の際に日の丸をモデルにして国旗を制定したのでした。

その日本だったものが日本じゃなくなるわけですから、これはもう大変なことだったということなんですが、最終的な戦後の日本領に関しては、サンフランシスコ平和条約で確定されることになります。

いろんなサイトを見てると、SCAPINがどうとか、カイロ宣言がどうとか、いろいろ言ってるわけですが、最終確定このサンフランシスコ平和条約だ、ということは重要です。

さて、それではそのサンフランシスコ平和条約にはなんと書いてあるのか?条約の全文はこちらですが↓

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/kaisetsu/other/tpj.html

竹島に関する規定はわずか数行。「日本国は、朝鮮の独立を承認して、斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」と書いてあるのみです。

ここには「竹島」あるいは「独島」という文字は一文字も出てきません。朝鮮半島周辺にも島はたくさんあるわけですから、それをいちいち書けるわけはないからです。だから「斉州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮」には竹島も入ってる、というのが韓国側の言い分です。

これに対し、日本側は「条文に書かれた島は日本との国境線を示している」と解釈しています。確かに地図を見ると、条文に書かれた島は全て半島から比較的離れた島です。面積的に大きくても半島の近くの島は書かれていません。地図で確認すると確かに「なるほど」というかんじではあります。

地図→http://www.watanabesato.co.jp/wldculture/korea/krm.htm#m

ただ、これは後付けの話になるかもしれませんが、やっぱりできることなら「別注」とか付けて全ての島を定義するべきだったのかなあ、とは思いますね。

さて、こうなるともう条文見ただけではどっちがどっちと言うことができませんので、ここで初めて条文の趣旨がどういうものだったか、という議論になるわけです。しかしこれもまたかなりややこしい話なので、また次回ということにします。

近代以前の竹島

日本は1905年の島根県編入で、近代法にのっとって竹島を完全に領有するに至ったわけだが、もし仮にこれが無効だった場合、逆に韓国の側はこれを領有していたと言えるのか?

「竹島」という名称は比較的最近のもので、島根県編入以降のものである。それ以前は「リャンコ島」とか「松島」とか呼ばれていた。

Ururunndo 一方竹島から少し離れたところにある鬱陵島には、いくつかの小さな島、つまり属島があるが、その中の一つが(昔から)現在でも「竹島」とか「竹嶼」とか呼ばれている。そしてさらには今の鬱陵島は昔は「竹島」と呼ばれていたこともあり、これが議論をする際の混乱の元になっている。

韓国のよく出してくる論拠の一つに、1900年に大韓帝国が出した勅令がある。これには以下のような内容が書いてある。

第一条
鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること
第二条
郡守は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と
竹島、石島を管轄すること

しかしここに出てくる「竹島」とか「石島」というのは経度や緯度、その他位置関係については何も書かれていない。前述の経緯から「竹島」は鬱陵島の属島の「竹島」のことだと推測できても、「石島」はどの島のことだか全く分からない。「石島」の韓国読みが「独島」に近いから「石島」は現竹島のことに違いないと韓国は言うが、これは全く根拠がない(韓国お得意の「語呂合わせ言語学」である)。

他にも、朝鮮の古い歴史書に「干山島」とか「干山国」とかいうのがあって、その歴史書によると朝鮮がこれを支配していたみたいに書かれている。そして韓国はこの「干山」を竹島だと主張したりするのだが、これも現竹島であるという根拠はない。それどころか「三国史記」や「輿地志」では、于山=鬱陵島だと書かれている。

さらに、朝鮮には竹島に関する正確な地図がない。つまり竹島=独島そのものを認識していなかった可能性が極めて高い。

これに対して、日本は江戸時代に多くの地図が作られており、その中にも竹島=当時松島について書かれているものがたくさん残っている。

また、江戸時代の「隠州視聴合紀」という文献には以下のように書かれており、位置関係もそれなりにしっかりつかんでいる。

島の総廻り十六里(島後)又未申の方五十八里にして、石州温泉津に至り、辰巳の方四十里、伯州赤崎あり。

卯の方凡百里にして、若州小浜に至り、丑寅の方百三十余里能州に当る。Takeshima1

亥の方四十里にして、松島あり。周り一里余にして、生木なき岩島といふ。

又酉の方七十余里にして竹島(欝陵島)あり。古より是を磯竹島といふ。竹木繁茂して、大島の由、是より朝鮮を望めば、隠州より雲州を見るよりも近し。今朝鮮人来りて住す。

竹島の位置だけでなく具体的な描写もあり、現在の竹島のそれと一致しているのがわかる。

さらに、日本人は江戸時代以前から竹島(現鬱陵島)に渡り漁をしていたが、その後朝鮮との争いで、江戸幕府がこの竹島(現鬱陵島)への渡航を禁止している(下のリンク参照)。

http://toron.pepper.jp/jp/take/ahn/ikken.html#tokakin

これを読んでも分かるとおり、江戸幕府は竹島(現鬱陵島)に関しては朝鮮人の居住地と認知してたらしい。そこに日本人漁民が「漁業に行きたい」と言ったので幕府が許可していたら朝鮮との間で問題になった。「余計な揉め事は避けたほうがいい」と判断した幕府は、竹島(現鬱陵島)への渡航をやめさせた。

これに対して松島(現竹島)のことは、ここでは何も書かれていない。しかし、松島(現竹島)はもとより人が住める島ではなく、別に朝鮮人に迷惑をかけることもない。であれば、以前から日本人漁民の寄港地として認知されていた松島での漁業を禁止する理由はないのだろうと推測される。

そして実際、松島への渡航は禁止されていなかった。その後も度々竹島や松島で漁をする人は現れたが、竹島の場合は幕府から罰せられても、松島の場合は罰せられなかった。

これらのことからも分かるとおり、日本は遅くとも江戸時代には現在の竹島を認知し、主に漁業に活用していた。それに対して朝鮮側の史料でそのようなものはなく、竹島そのものを認知してたかどうかすら疑わしい。

江戸時代の日本は封建制であり、国境の意味も現在のものとは違い曖昧なものだったのかもしれない。だから、この時代の文献を持ってきて正確な国境について議論すること自体がまずもってナンセンスなことだとは思うが、それでも白黒つけろと言われれば、実際に竹島の権益を利用していたことがはっきりしている日本のものだといっていいと思う。

2006年4月29日 (土)

大韓帝国は日本に逆らえなかったか?

前回はくどくどと日韓双方の言い分を書いたが、日本が現在最も重要な根拠として押し出しているのが1905年の島根県編入の事実である。これは最も古い近代法として、最も客観的にさかのぼることができるからである。ちなみに、これはあくまでも「竹島が日本の島根県の領土であることを確認した」ものであり、それ以前に日本が竹島を領有していなかったことを示すものではない。

しかし韓国は、これを日本の領土侵略の第一歩と捉えている。韓国がこれを侵略と捉える根拠は、当時の大韓帝国には日本に逆らうだけの外交上の自由がなかったからだという。

しかし、本当にそうなのだろうか?ここで当時の大韓帝国の状況を考えてみたい。

大韓帝国とは、1897~1910年に李氏朝鮮が使っていた国号である。そもそも李氏朝鮮は清の属国と見られていたが、日本は日朝修好条規によって朝鮮を独立国と認めた。その後も清国側はこれを認めず、朝鮮を属国として扱っていたが、日清戦争後の下関条約で朝鮮を「自主の邦」つまり独立国と認めた。

しかし当時の大韓帝国が完全な独立国としての体をなしているとは言えなかった。当時の朝鮮半島は李朝によって治められていたが、李朝の皇帝による浪費に次ぐ浪費と悪政によって、産業は衰え、まともな貨幣制度すらなく、兵士に支給する給与も米による現物支給で、それすらも長期間滞る有様だった。

そしてこのような状況が、周辺の大国による利権簒奪を促した。これは日本にとって脅威だった。日本にとって朝鮮半島は列強からの防波堤となっていてもらわなければ困る存在だったため、日本は朝鮮の独力による統治を期待することをあきらめ、徐々に保護国化を進めていった。

その手始めになったのが1904年の第一次日韓協約である。内容は以下の通り。

一 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル日本人一名ヲ財務顧問トシテ韓国政府ニ傭聘シ財務ニ関スル事項ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ
一 韓国政府ハ日本政府ノ推薦スル外国人一名ヲ外交顧問トシテ外部ニ傭聘シ外交ニ関スル要務ハ総テ其意見ヲ詢ヒ施行スヘシ
一 韓国政府ハ外国トノ条約締結其他重要ナル外交案件即外国人ニ対スル特権、譲与若ハ契約等ノ処理ニ関シテハ予メ日本政府ト協議スヘシ

要するに日本の推薦する日本人の財務顧問を一人と、日本が推薦する外国人の外交顧問を一人つける。さらに、外国との重要な取引や条約締結などは、日本と相談して決める、という約束なのだが、これによって大韓民国は日本の竹島編入に逆らえなかった、というのが韓国の言い分なのである。

確かに、この取り決めでは大韓帝国の外交顧問には日本寄りの人物がはいることになっていて、日本の影響がないとは言えなさそうである。しかし同時に、外国との取り決めは「日本政府ト協議スヘシ」となっており、竹島に関する案件も日本と相談することぐらいはできそうである。

しかし当時大韓帝国が、竹島の島根県編入に関して特に日本に相談してきたという史料は、私は寡聞にして見たことも聞いたこともない(知ってる人がいたら教えてください)。これは大韓帝国が完全に黙認していたことを意味し、韓国が言うような「日本が無理矢理」的な解釈はあたらない。

2006年4月28日 (金)

日韓双方の主張

【日本の主張】

江戸時代の初期(1618年)、伯耆藩の大谷、村川両家が幕府から鬱陵島を拝領して渡海免許を受け、毎年、同島に赴いて漁業を行い、アワビを幕府に献上していたが、竹島は鬱陵島渡航への寄港地、漁労地として利用されていた。また、遅くとも1661年には、両家は幕府から竹島を拝領していた。

1696年、鬱陵島周辺の漁業を巡る日韓間の交渉の結果、幕府は鬱陵島への渡航を禁じたが(「竹島一件」)、竹島への渡航は禁じなかった。

日本は1905年(明治38年)、1月の閣議決定に続き、2月の島根県告示により竹島を島根県に編入し、竹島を領有する意思を再確認している。

対日平和条約前の一連の措置に関する文書は、いずれもその文書の中で日本国領土帰属の最終的決定に関するものではないことを明記しており、竹島を日本の領土から除外したものではないことは明白である。また、もとより我が国固有の領土である竹島は、1943年のカイロ宣言にある「日本は、暴力及び貪欲により略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし」の「暴力及び貧欲により略取した」地域には当たらない。

1951年のサンフランシスコ平和条約において、日本がその独立を承認し、すべての権利、権原及び請求権を放棄した「朝鮮」に竹島が含まれていなことは、米国記録公開文書等で明らかである(以上http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/index.htmlより)

つまり、日本は江戸時代から竹島を領有してきたが、これを1905年の島根県編入により確認し、戦後アメリカによって「日本」は台湾、朝鮮、日本本土、沖縄などに分割されたが、竹島に関しては日本本土に含まれることをアメリカからも認められてる。

【韓国の主張】

独島が韓国領土なのは、古来の文献により明らかである。例えば、三国史記によると、新羅のイサプが西暦512年に鬱陵島を征伐したと記されている。

1894年にフランスで製作された地図には、韓国と日本の国境線を東海上に明記しており、独島は鬱陵(ウルルン)島とともに「于山(ウサン)島(I.Ouen-San)」と表記されている。(http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/01/15/20040115000080.html

日本は1905年に独島を島根県に編入したといっているが、この時大韓帝国は日本の影響力の下にあり、逆らえる状況ではなかった。さらに、これに先立つ1900年には大韓帝国官報の勅令として、独島が大韓帝国の領土であると宣言している。従って、日本の主張は無効である。

戦争終結間近の1943年のカイロ宣言には、1894~95年清・日戦争の時の日本が中国から切り取った領土を全て日本から切り離す旨が書かれており、ここからも、独島が韓国のモノであることがわかる。

1952年には、李承晩ラインが設定され、これにより独島は完全に韓国の領土内になった。

サンフランシスコ平和条約にも、「独島」が日本のものとの記述はなく、これを根拠にすることもできない。

つまり、独島は戦争のどさくさにまぎれて日本が韓国から奪い取ったものだから、戦後の分割により韓国の領土になるのが当然である。

と以上である。ちなみに、カイロ宣言とサンフランシスコ平和条約の全文はこちら↓

カイロ宣言

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/kaisetsu/other/cairo_conference.html

サンフランシスコ平和条約

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/kaisetsu/other/tpj.html

これを見ると、少なくともカイロ宣言に「1894~95年清・日戦争の時の日本が中国から切り取った領土を全て」日本から切り離す、といったような文章はなく、これだけでもかなり疑わしい。

長くなったので、検証は次回にまわすものとする。

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