2006年4月 3日 (月)

朝鮮通信使

<ヽ`∀´> 朝鮮通信使の話ニダ。

壬辰倭乱をきっかけに朝鮮と日本の外交関係は断絶していた。したがって、日本は経済的に困難に陥った。ために戦乱後成立した日本の徳川幕府は、先進文物を受け入れるために、対馬島主をとおして交渉を許可するように朝鮮に懇請した。朝鮮では日本が犯した誤りを恨みながらも、建国以来の交隣政策の原則に照らし、制限された範囲内での交渉を許した(1609年、己酉約条)。そうして富山浦に再び倭館が設置され、そこで日本人は米、木綿、人参などを求めていった。

<ヽ`∀´> あわれなチョッパリのために、しょうがないから国交を開いてやったニダ。

( ・w・) 江戸時代が始まった頃の日本ってそんなに経済的に困ってたのニャ?

(-□-□ いえ、日本の場合は韓国だけでなく琉球や蝦夷、それから欧州とも貿易をしてましたから、もし仮に困ってたとしてもそれが韓国との取引がなくなったからだというのはありえません。むしろ困ってたのは江戸幕府ではなくて対馬の宗氏の方だと思われます。対馬は農業生産力があまり高くなかったので、貿易に頼らざるを得ませんでした。幕府としては「朝鮮との貿易を通して幕府の威光を高めることが出来ればいい」ぐらいにしか思ってなかったのではないでしょうか?

また、日本は朝鮮を文化の先進国と考え、使節を派遣するよう要請してきた。これに対し、朝鮮では通信使を派遣したが、その一行はおよそ400余人になり、国賓として待遇を受けた。日本は通信使の一行をとおして先進学問と技術を学ぼうと懸命であった。したがって、通信使は外交使節としてだけでなく、朝鮮の先進文化を日本に伝播する役割も果たした。

<ヽ`∀´> チョッパリは感謝汁! 

( `w´)  なんかこれも微妙に不自然な気がするな。日本より朝鮮の方が先進国なんだったら、普通使節を派遣するのは日本の側だろ。逆なんだよな、どう考えても。

(-@-@ この時代の日朝間の認識は、どうやら当時から完全にズレていたようですね。朝鮮側としては、日本が漢文と儒教の教養が低いのを見て、文明のレベルが低い、と判断したようです。しかし当時の日本は蘭学を通じて西洋医学も入ってきていましたし、江戸は世界で最も栄えた都市のひとつでした。実際日本に来た通信使も、江戸や大阪の繁栄を見て驚いています。これは現代に置き換えて言えば、途上国の人が日本に来て「彼らは英語も出来ないしキリスト教の信仰もない」とあきれてるようなものなのです。

( `v´) 実際、出迎えた新井白石も嫌悪感を持ってたみたいだし。

(lll´Д`) 朝鮮通信使の態度はひどすぎモナ!!!

http://www1.odn.ne.jp/~aaa23320/oisinbo/oisinbo_vol7.html

【参考】

http://homepage2.nifty.com/k-sekirei/otaru/nikkan_02.html

http://www1.odn.ne.jp/~aaa23320/oisinbo/oisinbo_vol7.html

http://mirror.jijisama.org/rekisi1.htm#tuusinsi

http://ton.2ch.net/news/kako/990/990548027.html

http://photo.jijisama.org/Ttsusin.html

韓国と日本の歴史地図―民族の源流をたどる

2006年4月 2日 (日)

秀吉の朝鮮出兵

<ヽ`∀´> 高麗が倒れた後には李氏朝鮮がたったニダ。

<#`Д´#> その平和な李氏朝鮮に攻め込んできたのが秀吉ニダ!許せないニダ!!

【壬辰倭乱の勃発】

このころ日本では豊臣秀吉によって長期間にわたった戦国時代の混乱が収拾されていた。豊臣は国内政権の安定のために、不平勢力の関心を外に集めると同時に自らの征服欲を満足させるために朝鮮と明に対する侵略を準備した。

<#`Д´>″ 秀吉は礼儀知らずで強欲な野蛮人ニダ!チョッパリは信用できないニダ!

1592年4月、倭軍が侵略を開始した。倭軍が侵略してきて、釜山鎮と東萊城では鄭撥と宋象賢が奮戦したが、ついに陥落されてしまった。倭軍は.三つに分かれて漢陽をめざして北上した。これに対して忠州で申石立が背水の陣を布いて戦ったが、武器と戦略の不備で敗れた。

朝鮮朝廷は倭軍を避けて義州へ避難し、倭軍は漢陽を占領して北上をつづけ、平壌と威鏡道地方まで侵入した。

<;´Д`>∵ アイゴ-----!!

【義兵の抗争】

倭乱が生じると、全国各地で義兵が立って倭軍とたたかった。義兵は郷土の地理に精通し、郷土の条件にあった戦術と武器で倭軍に大きな打撃を与えた。

郭再祐、趙憲、高敬命、鄭文孚らがひきいる大小の義兵部隊の活躍は大きな成果をおさめた。義兵の輝かしい戦果は、海戦での李舜臣の勝利とともに戦況を変えた。

戦乱が長期化して倭軍に対する反撃作戦は一層強化されはじめた。すなわち、今まで散発的に立った義兵部隊を整備して官軍に編入することによって、官軍の戦闘能力を大幅に強化、作戦がより組織性を帯びるようになった。

<;`x´;> みんなで一致団結したニダ!!

【倭乱の克服】

朝鮮政府は、はじめは倭軍の攻勢におされて、宣祖が漢陽を離れて平壌、義州へ避難するなど、守勢を免れることはできなかった。しかし水軍と義兵の勝利で戦況が逆転し、倭軍を撃退するに至った。

戦争が長期化して朝鮮は明に援軍を要請し、明軍が戦争に参加した。朝・明連合軍は平壌城を回復して倭軍を南に追い出した。このとき権慄は幸州山城で倭軍を大いに打ち破った。

以後戦争は小康状態に入り、休戦会談が開かれた。しかしおたがいの主張が違って、3年間にわたった会談は決裂し、再び倭軍は侵入してきれた。これ対して朝鮮軍と明軍は倭軍が北上するのを稷稜山で防ぎ、南方へ撃退した。このとき李舜臣は倭軍を嶋梁へ誘導して一大反撃を加え、大勝利をおさめた。

陸地と海で再び惨敗を喫した倭軍は、次第に戦意を喪失して敗走しはじめた。朝鮮水軍は逃走する倭船数百隻を露梁の沖でさえぎり、最後の一撃を加えた。李舜臣はこの最後の戦闘で壮烈な戦死をとげた。露梁大勝を最後に7年間にわたった戦乱は終わりを告げた。

∵\<´▽`>/∵ ついにチョッパリをやっつけたニダ!!!

〃つД´;>゛ 李舜臣様は偉大ニダ!!

【倭乱の影響】

倭乱でわれわれが勝利をおさめることができたのは、わが民族がもっていた潜在的力量がすぐれていたためである。つまり、官軍次元のわが国防能力は日本に劣っていたが、全国民的次元の国防能力は日本を凌駕した。わが民族は身分の貴賎や男女老若を問わず、文化的な優越感に満たされて自発的な戦闘意識をもっていた。こうした精神力が国防能力に作用して倭軍を撃退させることができる力になった。

<ヽ`∀´> ウリナラが本気になればチョッパリごときに負けるわけないニダ!

 一方、倭乱は国内外的に多くの変化をもたらした。まず、国内的には、長い戦争で人口が激減し、農村はたいへん荒廃した。したがって、国家財政の窮乏と食料不足を解決するための対策として空名帳(貧民救済のために富裕者に官位を売り、その代金の証書……訳者)が大量に発給された。また、李夢鶴の乱のような民乱が各地で起こり、土地台帳と戸籍が多く焼失したために、租税、搖役の徴発と身分の区別が混乱した。

 また、国際的には、束アジアの形勢が大きく変化した。朝鮮と明が戦争で疲弊した隙に乗じて北方の女真族が急速に成長した。

 そして東アジアの文化的後進国であった日本は、朝鮮から活字、書籍、絵画、陶磁器などの文化財を略奪し、多くの技術者と学者等を拉致していった。これとともに朝鮮の性理学も伝えられ、日本の文化発展に大きな影響を及ぼした。

∵≧Д≦∵ チョッパリはドロボーニダ!!

(-@-@ 黙って聞いてればとんでもないウソ・デタラメ言いたい放題ですね。まず開戦から平壌陥落まで、ものすごい死闘が繰り広げられたようなことが書いてありますが、これはウソです。ウソが言いすぎなら、明らかな誇張です。秀吉軍はこの時楽々連戦連勝、漢城陥落の時にも、秀吉軍が入った時にはすでに焦土になっていました。平壌も無血で入城しています。これは何ででしょうか?一説には朝鮮軍の焦土作戦だったといいます。しかしもう一方で、民衆が秀吉に味方した、という証拠も残っています。↓

【証拠】

http://members.at.infoseek.co.jp/konrot/rekisi31.htm

http://toron.pepper.jp/jp/middle/wakou/hideyoshi.html

(-@-@ つまり、確かに当時の朝鮮貴族からしてみればとんでもない災難だったかもしれませんが、朝鮮の貴族たちは決して民衆の支持を得ていたとは言いがたく、またそれほど勇敢に戦ったという形跡もありません。従って、義兵が活躍したというのもウソです。李舜臣にしても、戦いをしかけるのは決まって秀吉の補給部隊ばかりで(補給部隊だから大した武力はない)、最後に講和後で退却中の秀吉軍を襲い、島津義弘の正規軍と戦ってあっさり負けています。「李舜臣はこの最後の戦闘で壮烈な戦死をとげた。」と書いてあるのはそういうことです。

<#`Д´>/ でも倭軍がウリナラに負けたことは事実ニダ!倭軍が強いのなら負けるわけないニダ!

(-@-@ そうです。秀吉軍は明らかに弱かったはずなのです。というよりも、秀吉が本当に勝つ気があるのかどうか疑ってしまうほどです。秀吉が退却した時も、まだ日本国内に家康を中心とした軍勢が待機していましたから、やろうと思えばもっとやれたはずです。にもかかわらずやらなかった。なぜか?これはもう内部の不和があってやれなかったとしか考えられません。その他にも明軍の力も相当大きかったと考えられます。明軍が来るまではほとんど連戦連勝だったわけですから、明の力がなければ朝鮮半島は秀吉の手に落ちていたことは間違いないでしょう。

<#`Д´>/ それでも秀吉がとんでもない略奪を働いたのは事実ニダ!それによってウリナラの文化は破壊されたニダ!間違いを正当化しちゃいけないニダ!チョッパリは謝罪するニダ!

(-@-@ 確かに秀吉が略奪や虐殺を行ったのは事実だと思われます。しかし考えてみてください。秀吉の軍勢は全部で15万程度です。その程度で朝鮮半島全体を略奪しきれるわけはありません。しかも秀吉の最終目的は明です。朝鮮半島は単なる通過地点に過ぎません。秀吉の略奪だけで朝鮮半島全体の文化財が破壊しつくされたと考えるのはあまりにも非合理的です。また、秀吉の朝鮮出兵は今から400年以上も前の話です。これに謝罪を求めるのであれば、朝鮮側も元寇の謝罪をしなければなりません。

<#`Д´>/ ウリナラは昔から文化的先進国だったに決まっているニダ!そのウリナラに文化財がほとんど残ってないのはチョッパリが悪逆非道なやり方で全部奪っていったからに違いないニダ!!

( ´‐`)  はいはい、全部悪いのは日本なんだよね。分かったよ。

<ヽ´∀`> そうニダ!素直に認めることは大事ニダ。

<ヽ`∀´> 認めたんだから賠償金よこすニダ!

はーーー(゜Д゜)ーーーー?????

【参考】

http://www.josuikai.net/josuikai/21f/55/kami/kami.htm

http://maki6544.up.seesaa.net/image/979B8Fw90b.txt

http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1592a.htm

http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1597a.htm

http://mi-si.blogzine.jp/blog/2005/05/post_9237.html

http://members.tripod.com/textbook_korea/5_2.html#5_2_4_1

2006年4月 1日 (土)

高麗

<、`∀´> 三国時代の後、新羅が朝鮮半島を統一するニダ。新羅は10Cになると崩壊し、その後高麗が朝鮮半島を統一するニダ。

<、´Д`> でも13Cになると蒙古がウリナラに攻め込んできたニダ。アイゴ~~~~!!!

高麗は蒙古との講和以後自主性を著しく損なうに至った。講和後、高麗が最初にうけた試練は日本征伐に動員されことであった。高麗は、国号を元と変えた蒙古の強要によって日本征伐のための軍隊をはじめ多くの人的・物的資源を徴発された。したがって長い戦乱で国家経済が破綻に直面していた高麗としては、苦痛をより深くなめるよになった。しかし2次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征は、台風によってすべて失敗に帰した。

<;´Д`> 日本征伐は蒙古に強要されてしょうがなくやったニダ。ウリナラは決してチョッパリのような侵略戦争などしないニダ。

(-□-□ とは言え、こんな資料もありますが…↓

http://toron.pepper.jp/jp/middle/genkou2.html

<#`Д´>/ 捏造ニダ!!日帝の罠ニダ!!

高麗はまた領土の一部を奪われた。つまり、元は高宗末年に和川に双城総管府を設置して、鉄嶺以北の土地を直属領に編入し、慈悲嶺以北の土地をわがものとして西京に東寧府をおいた。また、三別抄の抗戦を鎮圧した後、済州島に耽羅総管府を設置し、牧場を経営した。その後、東寧府と耽羅総管府は忠烈王のときに再び取り戻したが、双城総管府は恭愍王の時代に武力で回復するまで蒙古の支配下にあった。

゜Д゜) ち…直属領!

一方、高麗は
元の強要によって官制も変えなければならなかった3省の格を下げて金議府に一本化し、6府を4司に統合した。また元は日本征伐のために開京に設置した征東行省を、その後も持続させて連絡機関にした。この他にも監察機関である巡馬所を配置して内政に干渉した。

( ゜Д゜) 勝手に行政改革!

高麗に対する元の干渉は経済的収奪にも現れた。元がいろいろな口実で金、銀、布をはじめ人参、薬剤、石臼などの特産物を取り込んでいったために、農民たちは多大な苦痛をなめることになった。

しかし高麗と元の関係が拡大され、文化と風俗の交流も頻繁であった。高麗では
蒙古語を使用し、蒙古式衣服と頭髪が流行し、この他にも蒙古式名前をもった人まで現れて、高麗社会の本来の姿が変質したりした。一方、高麗の文化が蒙古に紹介されて、高麗風俗が蒙古社会で流行したりした。

( ´;Д;`)  ひ…ひどい!!名前や朝鮮語までも!

このように蒙古の干渉で高麗は、各分野で多くの損失をうけたが、
主権国家としての地位は固く守られていった

( ゜Д゜)  えーーーーーーー????な…なんで????明らかに属国じゃん!

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